髪形を理由の差別、禁止法案可決というニュースを新聞で目にした。
【パリ共同】フランス国民議会(下院)は28日、職場での髪形による差別を禁止する法案を賛成多数で可決した。
法案は、雇用主が従業員に髪をストレートにすることや、アフロヘアやドレッドヘアなどを隠すよう求めることを禁じている。金髪や赤毛の人への差別も禁止する。
KYODO通信
という記載である。
ちなみに最初に言っておくが、弊社は頭髪自由である。
髪型や服装は本来個人の自由であり、制限されるものではない(TPOだけわきまえてくれ)という根本的な考えのもとにあるので、会社の就業規則にもそう明記してある。
さて、そんな髪型についての話であるが、私がよく話す鉄板のネタ。
当社で働くスタッフにこの話をすると(大半が10歳近く年下)驚かれる話でもあるのだが、
私は、中学時代坊主であった。
何も好き好んで坊主だったわけではない。
小学6年生の頃はサラサラヘアーが自慢の....(いや言い過ぎが)長髪少年であった。
※小6の頃の私。バスケ&ドッジボール部。
しかしである。
私が中学生の頃地元(県内全体的に)の公立中学は校則で男子は坊主(丸刈り)、女子はおかっぱまたは一つ結び。と細かく決めらていた。
これは、昔々の話などではない、
90年代後半(私が中学生だった1996年〜1999年頃の話)割と最近の話である。
世間はW杯初出場にわき、同郷の前薗選手、城選手、遠藤選手の鹿児島実業トリオが、28年振りに五輪出場を果たし、世の中はスピッツやミスチルや、SMAP、SPEEDの音楽が流行り、まもなく2000年を迎えるということで湧きに湧きまくっていた超世間がキラキラしていた時代である。
校則で坊主。について調べてみると
丸刈り校則wikiこちら という記載があった。
かつて(戦後)は全国的な校則であったようだ。
その後、一部の私立中学や、各県の公立学校で長髪禁止は人権侵害のおそれがあるという考えから、反対運動や拘束緩和の流れが一気に加速し始め、徐々に少数であるが解禁となる中学校も出始めてはいた。
ただ、地元に限ってはまだまだ先の話で、私の頃は感覚的に80%の学校ではまだ坊主規定。20%ほどの都会(鹿児島市内など)の学校が解禁している。そんな印象だった。
小学校当時の私はとにかく祈った。
「俺が中学にあがる頃にはどうか長髪解禁になってほしい...と。」
しかし、願い届かず中学に上がると同時に、坊主決定。
長い髪を残念ながら、断髪した(家のバリカンで)。
さて、以前私には地元が二つあるという話を書いたことがある。
生まれも育ちも、なんなら200年以上代々住んでいることを登記謄本から知ることになった志布志という街と
ブログ「ここがすごいぞ我が故郷志布志」 https://www.startcreation.biz/post/shibushi
中学2年の夏〜高校3年の卒業まで5年間住んでいた霧島という二つの街である。
志布志中学に上がった頃のこと。
ちょうど時代の流れに乗り、また、当時の生徒会の頑張りが実ってか、なんと中学1年の終わり頃、ついに長髪解禁となった!
あの時、生徒会の皆さんが学校の職員や教頭、校長に向かってアピールを続け、
長髪解禁を勝ち取った際、拍手喝采の中、舞台上で輝いていた姿が忘れられなかった。
これで俺も短い、坊主生活からおさらばだぜ!
そう喜んでいたのも束の間、髪を伸ばし始めた中学2年にあがって間もない頃、
家の事情で、霧島の中学に引っ越すことが決まってしまった。
なお、、、霧島中学はまだ校則丸刈り規定の中学校である。
※写真は霧島中に引っ越してすぐ。
クラスに慣れる間もなく、数日後に修学旅行というハードモードで、長崎でクラスメイトと撮った集合写真。あの子もこの子も坊主。女子はおかっぱが多かったかな。
こうして、またしても坊主生活という振り出しに戻ることになったのだ。
しかし、私は昔から運がいいというか想像したことが、不思議と良い方向に動き出すことがある。
私が霧島中学に引っ越してしばらくしたある日のこと。
どうやら前生徒会の先輩方の働きかけかけや、時代の流れもあってか、
来年度坊主解禁するかも...という噂を耳にした。
私は、志布志中学時代に生徒会の諸先輩方が打ち立てた「長髪解禁!の瞬間」を舞台の下から見ていて
「あぁ、、、カッケー俺も記念すべきあれになりてー」
そうひそかに思っていたこともあり、ふと閃いた。
ワンチャン、新しく越して来た中学で、ほぼ確定事項と噂されている、長髪解禁年に、
生徒会に入ったら、自ずと記念すべき歴史的快挙のメンバーの一人になるかもしれない...そうなったとしたら、、、しめしめ。
そう思い立ち、中2の終わり、新年度の生徒会に立候補したのだった。
演説では、個性のみに重点を置いた、「自分がいかにこの学校でスパイスになれるかの話」を、鍋やカレーやシチューの隠し味に例えて力説し、
恐らく、よその町からやってきた新参者であるということと、一人だけ個性のみを貫いた演説の手法がウケたのであろう。
、、、なんと結果私は、
全校生徒の投票数第二位で、生徒副会長の座に座ることになったのである。
※生徒会で卒業前に撮った記念写真。
こうして、作戦通り、生徒会の座を手中に収めたタイミングと同時に、
ほぼ私自身、なんの努力をするでもなく、噂通り自動的に長髪解禁年の快挙をうち立てたメンバーとして崇められることになったのである。
歴史の1ページを刻んだ立役者と(勝手に)なり、残り1年間、長髪をそれなりに謳歌して卒業したのである。
校則の是非の議論以前にあの時代を経て身についたこと
今やブラック校則とも呼ばれるらしい、服装制限、髪型制限。
まぁ時代や感覚、考え方は進歩しているわけで、それが最先端の考えであれば一理あるのかもしれない。
ただ、私は、坊主やおかっぱなど制限されていた時代だったからこそ良い面も感じている。
例えば、人と接していると思うのだが、
外見(見てくれ)で判断するという判断材料を、中学当時持てなかったおかげで、
「芯から性格の良い人」、「心の綺麗な人」「髪型や服装を抜きにしても美しい人」を見抜く力をあの時代、少し養ったと思う。
(なお、全員坊主だった時代だったからこそ、あの当時モテた人は、真のモテる人間だったとも思うし、実際に今大人になってから当時のモテ男たちに会うと、かなりイけていたりする笑)
また、当時新しい学校で外見を規制された中で、内面から仲良くなった友達は、今も仲良く20年数年以上経っても芯から付き合える友達である。
最近は数年に1回会えるかどうかだが、今でもみんな、私が地元に帰ると、わざわざ時間をとって集まってくれる。本当に大切な温かい友達ばかりだ。
この仕事をしていると、「会社にふさわしい人間かどうか」、「一緒に仕事をやっていける人間か」など、どうしても人を選ばなければいけない状況があるが、
いつも私の判断基準にあるのは、ブランド力や実績や、見てくれの外見ではなく、
もっと内面的なところや本質的な部分に目が行きがちで(もちろん100%正しいということはないので、まだまだ精進の途中ではあるが)、見てくれに意識が行くことはほとんどない。
いつも、その人の本質(内面)を探して見ようとしている。
そういう意味では、あの当時の坊主制度が必ずしも良い校則だったということではないが、
あの時代の中で、大事な青春時代を過ごせたことは、将来においてはちょっとラッキーだったのかもしれない。そう思えることがある。